エンゼルファミリーのみなさん、こんにちは、KAZUYOです。
もうすぐ2月。前回予告したように、バレンタインデーについて紹介します!
今でこそ国民的行事となったバレンタインデーですが、どのように普及していったのかご存じですか?
日本でバレンタインデーの取り組みを始めた企業については諸説ありますが、バレンタインデーがチョコレートを贈る日として日本に広まったのは、森永製菓の働きが大きいと自負しています。
そこで今回は、森永製菓とバレンタインデーについて、振り返りたいと思います。
■世の中を明るくする新たな企画を!
1959年、当時のチョコレートの担当は、チョコレートがおいしく楽しめる1〜3月にチョコレートをPRできるようなイベントがなく困っていて、新たな企画を考えました。(夏はチョコレートが溶けやすいため、冬が売り時だったのです)
さらに、世の中を明るくするような話題やイベントを提供したいという思いもあったそうです。
その際、1956年頃に読んだイギリスの女性週刊誌に掲載されていた「バレンタインデーの風習」の話を思い出しました。「バレンタインデー=チョコレートを贈る日」というロマンティックな風習を、ぜひ日本でも広めたいと考えたそうです。
そこで、1959年12月にバレンタインデーの日本における知名度について市場調査を行なったところ、その認知度はわずか3%でした。
そこでまず、1959年12月に新発売した「森永ミルクチョコレート・ゴールド(厚型)」のラベルを送ると高級時計が当たる「バレンタイン・ギフト・キャンペーン」を立案しました。同時に、週刊誌にバレンタインデーについて紹介し、記事にしていただけるよう働きかけたそうです。
そして、1960年1月下旬から2月中旬にかけて、全国の新聞や週刊誌に広告を掲載しました。
例えば、1960年2月13日の新聞広告では、次のように説明されています。
『
バレンタイン・デー《愛の日》ハートのついたカードや手紙にチョコレートをそえて贈る日』
また、女性週刊誌の広告では
『
バレンタインデー オトコの子 オンナの子 の<愛>が芽ばえてかなえられる日 チョコレートに手紙をそえれば レイケンアラタカ・・・ 欧米では古くからの若い男女のならわし アノカタとアナタを結ぶ・・・愛のギフト』と説明しています。
なお、この時点では「女性から男性へ」とは明記していません。
▲1960年の新聞広告
■夢のあるショーを提供
2月14日には、バレンタインデーの催し物として楽しい夢のあるショー『森永バレンタインショウ』のテレビ中継を提供しました。このショウには、当時人気絶頂のフランキー堺・武井義明・沢村みつ子・デュークエイセス・スリーバブルス他が出演しました。
これらが相乗効果となってバレンタインデーが日本全国に知られるようになったのです。
森永製菓の1960年3月号の社内報に『若い人達を対象に企画した「バレンタインギフト」は〆切りには万の応募に達した。愛の日、バレンタインデーがチョコレートの日として深く印象づけたことは将来期待のもてる企画』と掲載されています。
1960年のキャンペーン終了後の調査では、認知度は90%台になったということです。
森永製菓が、バレンタインデーをチョコレートの日としてPRした取り組みが、とても大規模で話題になったものだったと言えると思います。
参考までに、1960年以降の「森永バレンタイン・ギフト」の賞品を紹介します。
非常に多くの応募があり、1961年には20万口以上になり、1964年には80万口以上もの応募があったそうです。
- 1960年(昭和35年)・・・高級腕時計
- 1961年(昭和36年)・・・高級化粧品(香水・口紅)
- 1962年(昭和37年)・・・宝石指輪(ダイヤ・ヒスイ・オパール・真珠)
- 1963年(昭和38年)・・・金の鍵アクセサリー
- 1964年(昭和39年)・・・世界のアクセサリー
- 1965年(昭和40年)・・・ジェム・ストーン・アクセサリー
▲1962年の新聞広告
▲「1962年の「森永バレンタイン・ショウ」台本
▲1962年のCM進行表。
「愛のメッセンジャー、森永チョコレートがきっと貴方の想いを叶えてくれることでしょう」というナレーション
▲1961年の社内報。抽選会の様子
2月14日は、バレンタインデーです。今年はどのようにして過ごされるご予定ですか?
エンゼルファミリーのみなさんが笑顔と喜びにあふれた1日を過ごせるよう、森永製菓が少しでもお手伝いできていたらとても幸せです。
次回は、2025年が50周年の「ハイチュウ」です。お楽しみに!